INICIAR SESIÓN魔獣が落とした石片を手掛かりに、二人は北に位置する遺跡を目指す。周りはもはや開けた平原ではなく、木々が茂る林である。
鬱蒼とした木々で空が覆われ、視界が悪い。閉鎖的なその環境は人間の手が介入していないため、魔獣が住みついているようだ。
途中、何回か魔獣に襲われることもあったが、その度に二人は連携しこれを撃退していった。
ところが、その回数が十に差し迫った頃――
「だーーっ!! 流石に数が多すぎねえか!? どうなってんだ、さっきからよ!」
立て続けに魔獣に襲われ、ついに我慢できなくなったグレンが叫んだ。その赤い髪は彼の苛立ちを表すかのように見える。
「なあ、エルキュール。この辺はいつもこんな感じなのか?」
「さあ、普段は遺跡の方には行かないから分からないが……確かにこの数は異常だ。それに――」
エルキュールはつい先ほど撃退した魔獣らを見下ろした。
「遺跡に向かうにつれて、術式の刻まれた魔獣の数が増えている……これが偶然とは思えない」
「……つまりアタリってことか」
落ち着きを取り戻したグレンは倒した魔獣の素材を採取した。先ほどまで怒っていた人間とは思えないくらい抜け目がない。
平原を出発してからかなり時間がたっており、直に陽も落ち始めるだろう。
「ああ、時間はかかったがもう少しだ」
前に目を向けると木々の隙間から遺跡の石壁が見える。目的地はすぐそこだった。
エルキュールは先を行こうとしたが――
「おい、ちょっと待て。これを見ろ」
それを手で制し、グレンは足元を示した。彼に倣って足元を見ると、何か足跡のようなものが見えた。
「足跡だ、それも魔獣のものじゃない……人の足跡だぜ、これは」
こんなところに人間の足跡が残っている事実。それはエルキュールにある想像をもたらした。
「術式の魔獣が大量にいるだけでなく人型の足跡まで……いよいよ怪しくなってきたな……慎重に進もう」
この先にアマルティアに繋がる手掛かりがあるかもしれない。二人を気を引き締めて遺跡への道を目指した。
木々に囲まれた林を抜けると開けた空間に出た。それまでは木の間に隠れ一部しか見えていなかった遺跡の全貌も露わになっている。その石の外壁は、ところどころ崩落したり損傷していたりする箇所があり、苔も生えている。そして――
「……おい、あれを見てみろよ」
グレンが小声で示した先には遺跡の入り口がある。石畳で作られた道とその端には石柱が等間隔で並んでおり、それが遺跡内部に続いている。内部は暗いのだろう、ここからでは暗闇しか見えず中の様子は知ることはできなかった。
しかし、そんな遺跡の様子は二人にとって些末なことであった。
「見るからに怪しい奴だぜ、あのローブの野郎」
そう、遺跡よりも注目に値するものがあったのである。
頭から足先まで隠す白いローブをまとった人影が一人、遺跡の入り口前に立っていた。
遺跡が好きで研究する人間もいるだろうが、ここまで来る程度の物好きの考古学者にしては服装が奇抜すぎだ。その上それらしき道具も手にしておらず、はっきり言って怪しさを絵に描いたような人物といえる。
「……おい、中に入っていくぞ……どうする、ここは慎重に後をつけるか――」
白ローブの人物が遺跡内部に入るや否や、そうエルキュールに提案しグレンは彼のほうを見るが、その動きがふと止まった。
「――――」
「……? どうかしたか? そんな怖い顔してよ?」
「あ……いや、何でもない。うん、そうだな。見つからないよう後に続こう。この先がアマルティアの根城である可能性が少なからずあるなら、慎重に行くべきだ」
「よし、それなら見失わないうちにいこうぜ」
グレンが先行し遺跡のほうへ向かう。
前を歩く彼がこちらの姿が見てないことを確認してから、エルキュールは自身の胸元に手を当てる。
そこは魔人のコアがある位置であった。
あのローブの人物を見たとき、エルキュールは自身のコアが疼くのを感じた。それも決していい感覚とは言えないものである。
「……この得体の知れない感覚は……一体なんだ?」
気にはなるが、分からない以上考えても仕方がない。そんなことに拘泥して、目の前に現れた手掛かりを逃すわけにはいかない。
不可解な現象に戸惑いながらも、エルキュールはグレンの後を追った。◇◆◇
遺跡の内部に入り少し奥に行くと、小さな部屋があった。そこに入ると外からの光がほとんど届かなくなり、辺りは暗闇に包まれた。
「思ってたより暗いな……エルキュール、明かりをつけてくれ」
「……はあ。俺がそうするのが当然のように言われると癪に障るが……まあ、分かった」
目を細めながら苦言を呈するが、エルキュールはすぐに意識を集中させると――
「――ライト」
光の魔素で構成された魔素質の球体を手の先に作りだした。球体は辺りをほのかに照らし、視界が徐々に明るくなってゆく。
「ハハ、ありがとな。にしても、随分手馴れてるみてえだな? 放出までの時間がかなり早い」
「そうか? 確かに、元々魔素感覚は鋭いほうではあるから、素早く魔法を放出するのは得意な方かもしれない……あと家では照明に明かりをつけるのは俺の役目だから、それもあるかな」
リゼットもアヤも朝はとことん弱い。魔人であるエルキュールは睡眠も必要としないので、自ずと明かりを灯すのは彼の役割となっていった。
「なるほどなぁ、家族と住んでるのか? そいつは微笑ましいねぇ……」
いつもの飄々とした声でグレンは言うが、その表情は今まで見た中でも一等優しい顔だった。
「……? 別に、君にだって――」
大袈裟な彼の態度に、「一緒に暮らす家族はいるだろう」と言いかけたのをエルキュールはすんでのところで飲み込んだ。
グレンの表情が微かに曇ったからというのもある。だが、それとは別にエルキュールに思うところがあった。
親子の概念がない魔人であるエルキュールにとっては、家族と呼べる人々がいるのは非常に幸運なことであるが、リーベである人間には誰しも家族がいて共に暮らしている、ずっとそれが当たり前であると考えていた。しかし、それは間違っていたのかもしれない。
直接聞いてはいないが、グレンの外見年齢は二十歳前後であり、通常なら魔法学校等の教育機関に通っていてもおかしくない年齢である。それにもかかわらず、彼はこの魔獣の危険にさらされている世界を一人で旅しているという。
深くは聞いてこなかったが、グレンが今の状態に至るまでには決して小さくはない理由があるのだろう。
エルキュールは自身の浅慮を恥じた。これも家族以外との交流経験の不足の弊害だろうか。
気のせいか、今日の自分はこんな反省ばかりしている気がする。
せっかく広い世界に触れようという気力が芽生えてきたところで、エルキュールは軽い自己嫌悪に陥り顔を俯かせた。「ったく、なーに黙りこくってんだよ。ほら、先に行こうぜ。ヌールの街の平和を守りたいんだろ?」
「あ……そうだったな。……ありがとう、グレン」
落ち込んだ空気を晴らすように、グレンは明るく振る舞う。逆に気を遣われてしまった形になる。
沈んではいられない。知らないことは知っていけばいいのだ。今までも、そうしてこの世界に適応してきたのだから。
「……この部屋には特に目立つものはないな。奥に進もう」
気を取り直し、素早く部屋を分析したエルキュールは、正面に見えていた通路に向かう。
通路に入ると、その両端の壁には特殊な模様と何か絵のようなものが描かれているのが見える。
その壁画は同様のものがいくつも描かれ、灰色の石の壁面を色とりどりに飾っている。「何だぁ、これは? 遺跡にはこんなのがたくさんあるのか?」
魔法により微かに照らされた通路を歩きながら、グレンは疑問を口にした。
「これは、古のヴェルトモンドにいた精霊を祀った遺跡にみられるものだな」
「ああー……六霊教みたいなものか? あんま詳しくねえが」
「そうだな。この遺跡はそのはしりのようなものだろう。六霊教のような体系的なものではない」
このヴェルトモンドに存在する最大の宗教、それが古の六大精霊とこの世界の万物の根源たる六属性の魔素を拝する六霊教である。この遺跡の壁の絵と似たような絵を六霊教関連の書物で目にしたことがあった。
六属性の魔素全てが互いに集約し、複雑に絡み合い、結合することで確固たる物質を形成する。それは即ち、魔素が世界を構築しているということに他ならない。
古の大精霊については、その存在を見たことがないので伝説のものだと疑ったりもするが、世界を構成する魔素は信仰に値するものだろうというのがエルキュールの持論だ。「ここの絵を見るに、この遺跡は光の大精霊ルシエルのみを崇拝するために造られたもののようだな。六霊教は六体すべての大精霊を信仰しているから、きっと六霊教が流行る以前に建てられたんだろう」
通路に描かれた絵を見ながら、エルキュールは本で得た自身の知識を披露していく。
彼の指摘通り、壁の絵にはルシエルを表したと思われる光り輝く少女だけが描かれており、他の大精霊の描写は見られなかった。「おぉー……説明ご苦労、物知りクン。そういや、あの石には光の魔鉱石が入ってたな。お前の言う通りだとしたら、あの石ころもここにあったものかも知れねえな」
「……そういうことだろう、欠片にあった模様もこの壁のものに似ている。あの兎型魔獣がこの遺跡から来たのは間違いない」
グレンが呼んだ妙なあだ名には触れまいと、毅然とした態度で懐から石片を取り出し、エルキュールは壁にある模様と欠片とのそれを照らし合わせた。
「だが、おかしくねえか? ここにはさっきから魔獣がでてくる気配はないぜ。本当にここから魔獣が移動してきたのか? 仮に、あの魔獣がここから移動して平原に来たとしても、理由がどうにも分からねえ」確かに、この遺跡に入ってから未だその姿は確認できない。ここに来るまでは嫌というほど遭遇したことを思うと、この状況は不可解に思える。
「……それはその通りだが。どっちにしろこの奥まで行けば答えがあるだろう」
通路の終点に着くと、今までで一番大きな部屋に出た。先ほどの部屋の数倍の規模である。
この部屋は二階建てになっているらしく、目の前に階段が続いているのが見える。
詳しく知ることはできなかったが、上階にはこの部屋を囲むような回廊があるようだった。「おいおい、結構な規模じゃねえか。エルキュール、ここは結構有名な遺跡なのか?」
「そうでもない。というか、遺跡に名前をつけられる事例はあまり多くない。ヴェルトモンドの遺跡はかなりの数があるからな、余程大きいものでないと……まあ、便宜上名前を付けるなら、北ヌール平原遺跡とかじゃないか?」
「ほーう、そんなもんか」
二人は会話をしながらも、広い室内を慎重に探索してゆく。正面のほうにひと際大きい通路が見えた。
「……でかいな。何か意味ありげだと思わねえか?」
「ああ。それと、この壁のあたりになにか削られた形跡がある」
エルキュールが示した通路の入り口の辺りの壁が、不自然に削られていた。さらによく見ると、その削られた箇所だけでなく通路の壁にところどころひっかき傷のようなものがあったり、床の石はほかの場所よりも汚れが目立ったりしている。
「どうやら、この通路は頻繁に出入りされているみたいだ」
「つまり、あの野郎が向かったのはこの先ってことだな?」
「その可能性が高い。上階の様子も気になるが、こちらの方を優先するべきだ」
一歩、通路に足を踏み入れる。途端に通路の奥の方から嫌な気配がするのをエルキュールは感じた。
先ほどの通路と見てくれは相違ないはずだが、通路の先にある暗闇は底知れなく、得体の知れない不気味さがあった。
胸のコアも何かに反応するが如く疼いている。――間違いない、この先に求めているものがある。
コアの疼きとアマルティアの手掛かりは関係がないように思えるが、エルキュールはある種の本能でそうだと感じていた。「……ここからは極力音を立てないように行動しよう」
「分かったぜ。確かにこの先は普通じゃねえ……」
エルキュールと同様に何かを感じたらしいグレンは緊張した面持ちで頷いた。
警戒を強め、エルキュールは手の上に浮かべていた光の球体の光度を弱めた。それに伴い、周囲の視野が周辺から黒く塗りつぶされたように狭まっていく。
暗がりの中、二人は手で壁を伝いながら足跡を立てないように歩を進める。
会話もなく黙々と通路を少し歩いたところで、先頭を行っていたエルキュールの足が止まる。
――通路の終点が見えてきたのだ。
通路の出口付近は、端の壁が内側にせり出しており、それまでの通路に比べて幅が狭まっていた。
内側にせり出た部分の影に身を隠し、二人は通路の先を覗き見る。簡潔に言うならそれは長方形の部屋だった。恐らくこの遺跡の中で最も広い部屋だと思われるほど、それまでに比べて規模の大きい空間である。
だがその広さに反し、通路からであっても部屋の全貌はある程度把握することができた。壁に等間隔に備え付けられた燭台のおかげだ。
真っ直ぐに奥に伸びた部屋の先を見れば、石か何かで作られた祭壇が鎮座している。
その部分だけ一段高いところに造られており、周りでは一際数の多い燭台が祭壇を照らしている。赤く照らされた部屋に物々しい石の祭壇。――特別な部屋であることは容易に想像がついた。
しかし、二人はそんな厳かな部屋の雰囲気に微塵も飲まれることはなかった。
――影である。部屋の奥、祭壇の方を向き上を見上げながら静かに佇む人影に二人の注意は向けられていた。
「……あれは……遺跡の前にいた人物か?」
「違いねえ。……どうやら一人みてえだな」
最小限に抑えた声量で、二人は奥の人物を観察する。グレンが言うように、その人影を除いて怪しいものはいないようだ。
「どうする、相手は一人だ……このまま一気に抑えるか?」
「待ってくれ。――よし、この辺りに魔法による罠はないようだな……」
拳を合わせ威勢のいいことを言うグレンを制止して、エルキュールは慎重に魔素感覚を研ぎ澄ました。
二人の追跡があの人物に気取られているかは置いておいても、ここが敵地であることに変わりはない。「そいつはよかったぜ。なら、さっきの兎魔獣どもにお見舞いしたあの作戦で行くぞ」
「あの作戦」とは、エルキュールのシャドースティッチからグレンの攻撃に繋げる一連の行動の事だろう。エルキュールは同意を示し――。
「ああ。それで――」
「――全く、いつまでそうしているつもりかね」
エルキュールの言葉を遮り、部屋の遥か奥から声が響いた。
リーベという生物が生まれる遥か前の古の時代のこと。 高濃度の魔素で満たされたヴェルトモンドの大地は、精霊と呼ばれる生命が住まう園であった。 火の精霊、水の精霊、風の精霊―― 世界の理たる六属性の魔素と対応する六属性の精霊たちは、思い思いのままにヴェルトモンドを放浪し、互いが干渉することを嫌っていた。 内に秘める魔素が原因なのか、異なる属性を持つ精霊たちが遭遇すると常に争いが起こる。 争いが起これば、常に力の強いものが勝ち、弱いものが淘汰されるのは、群れることを厭う精霊の間では避けられないものだった。 勝った側は負けた側の魔素を取り込み、各精霊の力の均衡というのは次第に崩れていった。 力を持つ者にとって、自らの害となるものを力で排除することは非常に単純かつ効果的であり、闘争に慣れた精霊たちの力はやがて、ヴェルトモンド全土の魔素を喰らい尽くさんとしていた。 だが、類まれなる力を有した精霊であっても、未曽有の危機に瀕したヴェルトモンドを、苦難に喘ぐ弱き精霊たちを救おうとするものたちがいた。 後の時代に多大なる影響を及ぼした六体の精霊――ゼルカン、トゥルリム、セレ、ガレウス、ルシエル、そしてベルムント。 属性が異なるにも関わらず、六体の精霊は互いに協力することを惜しまず、そんな彼らの姿を目の当たりにした他の精霊たちの間にも、ある共通の意志が芽生えようとしていた。 それは抗争の意志であった。強大な敵を打破するために力を結集しようという意志であった。「――そして力を合わせた精霊たちはどうにか悪い精霊を倒し、平和になったヴェルトモンドでは、六体の大精霊の加護の下今度は仲良く暮らしましたとさ。めでたし、めでたし~」「あ、最後の方なんかテキトーにしめただろー!」 それまで部屋を満たしていた少女の朗読の声が止むや否や、向かいのベッドに腰かけていた少年の鋭い指摘が飛ぶ。 不満の表情を浮かべる少年に思わず少女は苦笑する。確かに最後の部分は意図的に省略して読んだが、何も朗読に飽きたとか、いいかげんにあしらったとか、決してそういった理由ではなかった。「そうだよジェナおねえちゃん、だいせいれいたちはこの後どうなるのー? あたし、気になるよぉ……」 少女――ジェナの視線の先では、少年の傍らに座る幼女が彼の言葉に同意して物語の続きをねだるが、その半開きの口からは
オルレーヌを守護する王国騎士団、その騎士たちを統率するロベール・オスマンはその立場の関係上、またはその実直さ故に非常に悩みの多い人物である。 例えば、魔物の勢力が強まっているため騎士団に所属する騎士の一人一人の練度を今一度見つめ直さねばならないことについて。 例えば、いつまでも身を固める素振りを見せない愛娘のことや、先日息子夫婦の間に生まれた孫への贈り物について。 悩みの種類やその重要度は様々であるが、目下のところロベールの頭を悩ませているのはそれとは別の事であった。「ふう――」 ロベールのために設えられた執務室内にて、彼は重苦しく息を吐いた。「オスマン騎士団長! 今お時間よろしいでしょうか!?」「む、来たか……入りなさい」 そんな重苦しい空気を払拭するかのように、部屋の入り口から慌ただしい声がかけられた。その声を聞くや否や、それまでの弱気だった顔色はたちまち霧消し、ロベールは騎士団長に相応しい超然とした面持ちで部下を促した。 室内には似つかわしくない甲冑の音を響かせながら、部下の男はロベールの席まで小走りでやってきた。「――ヌールの件だな?」「え、ええ……あちらの騎士隊長殿から連絡がありまして。……急ぎ、こちらの資料に今回の事件の概要を纏めさせていただきました」「ああ、感謝する」 ロベールは短く謝意を述べると、部下である騎士から恭しく手渡された資料に目を通し始める。 ――三方向から同時に行われた襲撃、広範囲にわたる街の損壊の程度、安否確認が取れた住人の割合は過去の事例と比較しても圧倒的に少ない。 資料に記されている内容は、どれを見ても今回の事件の凄惨さを物語っていた。「……だが、やはり想定より被害が大きすぎるな」 資料に通していた目線を外し、ロベールはその事実を確かめるように呟いた。 かつての十五年前の事件を皮切りに、ヴェルトモンド各地では魔獣による襲撃が激化しているのは確か
「――ったく、やっぱ何か隠していたみてえだな」 天を見上げながらグレンは恨めしげに呟く。横を見れば、眠りにつく前までそこにいたはずのエルキュールの姿がなかった。 もちろん通常なら大したことではない。用を足しにいったか、眠れないから外の空気を吸いにいったか、今この場にいない理由は幾つか考えられる。 しかし、エルキュールが出ていった理由はそんな気軽なものではないとグレンは半ば確信していた。 彼の目、彼の声、彼の態度は、あの時ヌール広場で別れたときとは明らかに異なっていた。その表情は失意や悔恨で塗れていた。明らかに異常な状態であったのだ。あのような人間が正常に行動できるとは到底思えない、得てして過ちを犯すものだ。 だからこそ、彼の行動には注意を払っていたつもりだったのだが、流石に疲れが溜まっていたようだ。 己の不覚に舌打ちしながらゆっくりと身体を起こし、エルキュールに掛けられたであろう毛布を脱ぎ去る。 彼はグレンが眠りにつくのを待っていたようだが、これに関しては甘いと言わざるを得ない。結果的にグレンを起こしてしまったのだから。 だが今はその甘さに感謝する必要があるだろう。おかげで、エルキュールの状態が想像よりも遥かに悪かったことに改めて気づくことができた。 寝ている人々を起こさないように静かに立ち上がる。 何も言わずに出ていったということは、きっとエルキュールはグレンが追ってくることなど望んでいない。加えて、彼と出会って僅か数時間にして立ち入っていいものかという逡巡もある。本当はこれ以上関わるのは間違っているのかもしれない。 頭では分かっている。ならば何故グレンは今立ち上がったのか。過去に捨て去った博愛の信条でも思い出したのだろうか。いかなるものが相手であっても、嘆きに喘ぐ人を見捨てることを認めない。甘く、愚かで、馬鹿げたかつての信条を。 その博愛が必ずしも世のため人のためになるとは限らない。それどころか、他者からの裏切りという形で自身に牙を向くことすらあることを、グレンは嫌というほど知っていた。 それでも、今回に限ってはこの行いをやめるつもりはなかった。街をただ守りたいから魔獣と戦うと言った彼の純粋な言葉を、家族について語っていた時のぎこちない微笑みを思うと、この現状は何とも悲しく、救いがないように感じられた。それだけであの優しくも哀れな男に
言葉を選ぶようにゆっくりと、エルキュールは自身の体験を差し支えないように語り始める。 ザラームのほかにも、フロンやアーウェ、魔人と化したアランの存在。自身の事と「アマルティアのもう一つの目的」には触れずに、事実を連ねていく。「君には無理をするなと言われたんだが、結局捕まってしまった。だけど、奴らは俺に攻撃を加える前に何やら通信機のようなもので会話をし、そのまま退却していったんだ」「おいおい……結局無茶してんじゃねえか……!」 グレンから悲鳴にも等しい声が上がる。申し訳ないという感情がエルキュールの心を掠めるが、彼の鉄仮面を割るには至らなかった。 エルキュールは相好を崩さず、淡々と続ける。「彼らが去る前に、王都がどうとか言っていたな。情報といえばそれくらいしかないな」 あの時の出来事はエルキュールにとってはあまりに刺激的で、正直記憶も曖昧であった。 それでも記憶の糸を辿り、建設的な会話をするように努めた。「王都ですか……そちらの方でも彼奴らが暗躍していた可能性がありますな」「ああ。あいつらはここの魔動鏡を乗っ取っていやがったが、その時のザラームの言葉は国全体に向けたようなものだった。そして、全国にその映像を送信するのに最も適したものは、王都・ミクシリアにあるものに違いねえ」「理論的にはそうですな。先日も王都周辺で魔人が確認されたとのことです。それは既に討伐されたそうですが、その騒ぎに乗じて潜入したのでしょうか」 王都の魔人騒ぎの件は、今朝の魔動鏡の放送の際に誰かが触れていた気がする。その後に特に異常は見られなかったという話だったが、その時からこの襲撃が仕組まれていたというのか。 アマルティアの執念を今一度思い知らされる。「ふむ、そのことも合わせて騎士団本部に申す必要がありそうですね」「こうなったらオレも王都の方に顔を出す必要がありそうだな……あまり気は進まねえが」 グレンもニコラスも、それぞれが自身の今後の
家から出て、とりあえずはこの街を出ようと考えていたエルキュールだったが、街が存外静かなことに気づきその足を止めた。 先ほどまでは辺りに魔獣が闊歩し炎に包まれていたというのに、今となっては魔獣の姿は忽然と消え、燃え盛っていた炎の勢いも弱まっていた。 それでも、ここまで倒壊した家屋が多いと復旧に時間はかかるだろう。すぐに以前のような生活に戻ることは見込めない。「……変に冷静な自分が嫌になるな」 どこか他人事のように荒れ果てた街を分析していたエルキュールだったが、不意にその眉を歪めた。 彼も当事者であることに変わりはないはずなのだが、その態度は不思議なほど落ち着いたものであった。 そんな光景に慣れてしまうくらい、長い時が流れたというのもあるだろう。 しかし、そんな量的な問題では到底片付けられないものが、エルキュールの心に重く沈んでいた。 アマルティアとの邂逅、それに伴う自己認識の変容。 世界と自分との間の壁が一際厚くなったような感覚をエルキュールは感じていた。「とりあえずの脅威は去ったのか……?」 せめて生存者が無事に避難できたのかだけは、この街を発つ前に確認しておくべきだろう。 この地に災害を招いた遠因として、それくらいは行って然るべきだ。「郊外に出てみれば何か分かるかもしれないな」 もう、あらかたの救助は済んでいるはずだ。そう判断し、エルキュールは歩みを進める。 ――目指すはアルトニー方面。ニースの方には足が向くはずもなかった。 ヌールには街の外に出る三つの門がある。 一つは、今朝アヤとリゼットを見送ったニースへと続く東門。 一つは、グレンと共に魔獣を狩りに言った際に通った北門。 そして、最後がアルトニー方面に造られた西門。こちらを通るのはおよそ三年ぶり、初めてヌールの街に来た時以来になる。 北ヌール平原に魔獣を狩りに行くとき以外は、この街から外に
『この世界にお前らバケモノが生きる場所なんざねえんだよ!!』 ――これは誰の言葉だっただろうか? あの頃のことは朧気ながらにしか覚えていないらしく、生憎とこの言葉の主の顔は思い出せない。 記憶が蘇るたびに心を抉られてきたというのに、不思議な感覚だな。 思えば、これが始まりだったか。 この世界に俺の居場所など存在しない。その事件を経てからというもの、心の片隅ではずっとそう思っていたんだ。 それでもこの世界で何とか生きてこれたのは、間違いなく母さんとアヤのおかげだろう。 当時、半ば廃人だった俺に教学を、道徳を、愛情を与えてくれた。この世界で生きる術を教えてくれた。 この恩は、きっと生涯忘れない。 母さんもそうだが、まだ小さかったアヤに苦労を掛けさせてしまったことは、謝罪しないといけないな。 ヌールに至るまで家もなく、魔物の脅威に怯えながら各地を転々としたことは、臆病な性格だったアヤにはさぞかし辛かっただろう。 ――そう、辛かったはずだ。辛かったはずなのに、俺が謝るたび「いつかお兄ちゃんを守れるくらい、強くなるから」と言って、笑いかけてくれたことは忘れられない。 その言葉通り、本当に強くなったのだから、本当に凄いと思う。 名の知れた魔法学校に入学したこと、臆病な性格を直すために人と話す練習をしてきたこと、数えだしたらきりがない。 もし、それらのことに俺の存在が関わっていたとしたら、少しは共に過ごした甲斐があったのだろうか。――いや、流石に厚かましすぎるな。 俺もそんな君たちに認められるために、共にいることを許されるために、必死だったな。 その中でも、魔人としての力を抑えることは容易ではなかった。 イブリスは外界にある魔素を吸収することで自らの糧とし、その際にコアが発光するのが特徴だ。 もちろんリーベである人間の世界で表立って魔素の吸収はできない。基本は人目のつかない夜に、場合によっては何日も行えないときもあっ







